いろいろ書く

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(考察)邦楽からみる男女の関係

 

1、 社会的・文化的性別


近ごろ「性別」を「社会的・文化的性別」と表記されるようになってきた。ターゲット1900のNo.370。ここにも確かにgenderの訳でそう書いてある。ちなみに現代文単語でもこの表記になっている。これは様々なジェンダーのあり方はもちろん、男性も女性も同じ、といった意味合いを含んでいるようにもみえる。男性だってプリキュアが好き。女性だってジョジョが好き。ジェンダーフリーである。しかし、反感を覚悟で述べたいことがある。本当に性別は社会的・文化的なものだけであろうか?男女平等が促進されることは人類にとって誇るべきことだが、一体いつ男女が同質であると履き違えられたのか。男女の体つきは全く異なり、これは多くの人が理解している。体つきの違いというのは男性、女性ホルモンのバランスによるものであるが、同じくこれらの影響を受ける部分がもう1つある。それは脳みそである。こちらは反対する者が多い。しかしどうだろう。これほどの違いをもたらす男性、女性ホルモンが、どうして脳みそには男女の違いをもたらさないというのだろう?こんなことを古めの邦楽を交えて考察してみようと思う。今回はこういう話である。かなり際どい話題のため、ここから先を読み進めるのは自己責任とさせていただきたい。細心の注意は払ったが、それでもやはり、見るべきでない人もいるかもしれない。


2、 男と女は平行線


むしろねじれの関係にあるといっても差し支えない。男性と女性について知るにあたって、いくつか参考になりそうな歌詞がある曲を紹介する。ぜひこの機会に検索をかけてフルで聞いてみて欲しい。もう一度言う、フルで聞いてほしい。あなたの考えが大きく変わるかもしれない。ただ、語弊があるといけないので、まず私のその曲の説明をひととおり読み終えてから、ネットに飛んで欲しい。  

まず1つ目に紹介するのは、男性目線の曲「関白宣言」。非常に有名な曲であるが、知らない人は知らない曲である。なぜなら、おそらくこの時代に出たら大バッシングをくらっただろうような曲だからである。それゆえこの曲に触れる人もあまりいないのかもしれない。平成生まれにとって、序盤はおそらく聞き苦しいだろう。女性を軽視したような歌詞で、それでいて真っ向から浮気の可能性をほのめかしている。しかし、同時にこれほど愛に満ち溢れた曲はないだろう。その真意に気づいた時、この曲は輝く。一見差別的な歌詞に、男性の無垢な感情が読み取れるだろう。それでは、ここでぜひ聞きに行ってほしい。

2つ目に紹介するのは、女性目線の曲「ラムのラブソング」。これは昭和アニメのオープニング曲である。そのため、全体的に可愛らしく出来上がっており、特に初めは“あんまり知らないノリ”なので、困惑するかもしれない。それでも聞き続けてほしい。ではどうぞ。

3つ目、これで最後。男性、女性目線からの曲「3年目の浮気」を紹介する。若い夫婦が出てくる曲で、登場する男性がかなりやんちゃしている。だが、そればかりに気を取られてはいけない。男性側と女性側のどちらの歌詞もよく聞いてほしい。曲の進行につれて変化する歌詞の中での微かな心情と発した言葉の裏にある意図を読み取っていくと、男女の違いが少しずつ分かってくる。それではどうぞ。


3、 平行線は一度でも傾けば交わる


男性はいつも尊大でアホで浮気者である。このようなことを一括でまとめるべきではないとは思うが、ほとんど事実だ。女性に関しては、ここで大きく出て表現しきることは控えることにする。どうしてもやはり男性には女性がわからないのである。いずれにせよ、男性と女性は別物であり、我々はこれらを同一化するのではなく、違いを認識した上で男性と女性に関して客観視しなければならないのだ。ゆえに、男性はその性別を逸脱し女性の立場に立って考えるべきだろう。女性は鋭い勘を持ってはいるものの、性別を逸脱しない限り女性的な視点からは逃れられない。やはり自己の性別を逸脱し、男性の立場に立ってみることが必要だろう。これこそ、男女平等の社会において必要な態度であり、おそらくこれが真のジェンダーフリーの考え方であろう。