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(考察)ゲーム「テンプルラン」を通してみる成熟の本質

1、概要
かつて世界を席巻した、伝説的無料スマホゲーム「テンプルラン」通称“元祖逃げゲー”を覚えているだろうか。名前では思い出せなくとも、検索して画像を確認してみると、そこには懐かしい景色が広がっているはずである。本稿では、そのテンプルランの理解を深めてもらうことを目的としたものである。これによってテンプルランを普及させるだけでなく、国民のテンプルランリテラシーを向上させ、最終的には若者の政治参加を促すことを目標に見据えた。

2、テンプルランの本質
ユーザーインターフェース(UI)をこれでもかと言わんばかりにゲームに落とし込み、スマホという小さな画面に無限の可能性を発見したゲーム、それがテンプルランとアングリーバードであった。では両者の違いは何か?それは後続作品の数である。アングリーバードは現在様々なシリーズや単発物が出ており、もはやスマホを超えた商売さえ行なっている。ではテンプルランはどうか。これは、たった2作品しかない。「テンプルラン」と、「テンプルラン2」である。(テンプルランブレイブは現在appstoreでは扱われていない)ただこれだけで、新規スマホユーザーを単騎待ちしているのである。なんという貫禄であろうか。揺るがないimangi(制作会社)の熱意を感じざるを得ない。ここから、テンプルランの本質が見えてくる。本質は、imangiの信念、開発者たちの過去の栄光、これらのもはや怨念とも言うべき熱情が、現在のテンプルランを構成しているということである。この構造自体が、テンプルランの本質なのだ。はっきり言おう、テンプルランに貫禄があることは認めるが、テンプルランの隆盛は過去のものである。しかし、昔のテンプルランというのはまだ、かけっこが好きな少年であった。放課後に野原を駆け回る小学生のような、そんな自由さを感じた。ただ、まだ小学生だったのだ。まだ愛を知らず、人間関係のごたごたも知らず、現実はいつも厳しいことも、まだ知らない。そんな小学生に惹きつけられるのは、両親か、母性本能のある人間かのどちらかである。あらゆる人類を魅了して離さないものは、儚げにあるはずだ。人類はこのテンプルランの、衰退しきって、もはや草木が生え始めた過去の街並みに、不思議と惹かれるのだ。

3、日本という国
日本ははっきり言って衰退している、とよく言われる。良く解釈すれば、成熟してきている。先述の内容を持ってして、人類を魅了するからこれをよしとするのは早計である。成熟にも、良い成熟と悪い成熟がある。良い成熟とは怨念でつくられるものである。悪い成熟とは諦め、やさぐれることでつくられるものある。どちらもかつての禍根に悩まされてはいるものの、それに対する執念が違う。崖の縁で、両手だけで全体重を支え、今にも落ちようとしている人間がいたとする。初めからあっけなく力を抜いて落ちるのと、最後まで足掻いて落ちるのは、同じだろうか。たしかに結果は同じかもしれない。だが、その現場を誰かが見ていたとすれば、その根性はその誰かに力を与えるかもしれない。繰り返すが、良い成熟とは怨念である。日本もまた、今でこそさっぱりしてしまっているが、もっと怨念があっていいはずで、もっと幽霊もバンバン出ていいはずだ。そしてそれら怨念を一身で受け止める覚悟が、いま我々に要求されているのだ。数々の凡人たちと、数々の秀才たちと、数々の天才たちの信念がいまの日本に力を与えている。次は、私たちの番なのだ。

4、まとめ
我々日本人は真の成熟について、テンプルランに学ばなければならない。怨念は随所に現れる。街中でよく目を擦ってみると、そこら中に日本の面影が見える。テンプルランにはimangiの面影が見える。彼らはいま、どこで何をしているのだろうか。ありがとうimangi、ありがとうテンプルラン。彼らの怨念が、いま我々に取り憑いた。さあ、選挙に行こう。日本で嘆き苦しみ足掻いて、そして怨念を残すのだ。