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(考察)なぜ人を殺してはいけないのか

今週のお題「間取り」

人倫の間取りを考えようと思う。私が思うに、法が8割で、道徳が2割である。また、そもそもそんな物件は存在するのか。これらを実証すべく、ある哲学的問いを通して考えてみようと思う。

「なぜ人を殺してはいけないのか」

人倫の最高峰の問いに、私なりの結論を提示したい。結論から言えば、殺してはいけない理由はない。では殺してもいいのかと言われれば、私はそれを推奨しない。これが結論である。

そもそもなぜこんな問いが生まれるのか。それは、我々という個人の自由の拡張が極大化しているからである。つまり、現代人は殺人も個人の自由の1つだと思ってしまうのだ。

この問いについて、良く知られているものとして3つのアプローチがあるので、それぞれに対して反駁していこうと思う。

1つ目は、「自分がそうされたくないから。だから殺すべきではない。」これには重大な欠陥がある。死ぬ覚悟ができている人には、この理由は全く適応されないということである。よって包括的な理由ではないから、不適切と言えるだろう。

2つ目は、「仏教やキリスト教などの、殺すことへの罰を避けたいから。」これは宗教に対する根本的な否定になってしまうが、単に私の考えとして聞いてほしい。宗教は不完全なのだ。例えば悪事をして地獄に落ちるというのは、なんと人間的な考えだろうか。人間的な考えが不完全なのは自明である。人が変われば見解も変わるからだ。加えて、地獄で味わうのは苦痛である。地獄という人間の範疇の外のものが、どうして人間の理解に収まっているのだろう。正確には本来の仏教に地獄という設定はないらしいが、他にも輪廻転生から抜け出せないなど、人間的解釈による「悪事」に対する仕打ちが酷すぎるのだ。どうしてもやはり、ここには政治的意図を感じざるを得ない。そして、神やらから与えられたものならば、完全なものであるのが当然だろう。再度言うが、宗教は明らかに不完全なのだ。つまり、根本が崩れるのだからこの理由も成立するとは言えない。

3つ目は、「後処理が大変だから。」後処理というのは遺体の話というよりかは、逃亡したり捕まったり囚人生活をすることである。確かに正直、殺すことを選択するのは割に合っていない。ただ、これは通時的な目線で殺人を否定している。殺すというその動作を否定できているものではない。直後に自らも死ねばいいだけの話である。これもまた、直接的な否定とはならない。

もうどうしようもないように思える。そして、1つ思い出さなければならないことがある。それは、我々が社会の中に生きているということである。生産者がいなければ消費者が困る。だから人は多ければ多いほうがいい。また、戦争が起きれば自国の利益のためにいくらでも殺していい。こういった現実が存在する。つまり、「人を殺してはいけない」というのは相当ご都合主義な明文なのである。人倫さえも社会に左右されて我々は生きなければならない。あるいは、殺人を人倫の対象から除外して人倫を不動のものとするのか。それは個々人が選ぶことである。

ただ私としては、あんまり推奨しない。不安定な人倫に左右されるのは不服だが、しかし人間にとって、それが唯一の誇りだと思うからである。理由がないからやるとかやらないとか、そんな理屈で動くのは野生である。野生を否定するわけではないが、少なくとも我々は人間である。であるならば、我々は人間として生きるべきである。

単純な話、そんな不明確なもので価値判断をしたくないのであれば、別の物件を探せばいい。そこはとても筋が通っていて、とても住みやすいかもしれない。ただ、それは容易に殺人を許容できる物件かもしれない。地下鉄にサリンがまかれたのは、まさにこういったメカニズムがあったはずだ。社会の中で生きる上で、我々は人倫とは切っても切り離せない関係である。人倫から私たちは逃れるのではなく、不安定に耐えるとともに、客観的ではなく、自分がどうしたいのかを見つめる必要があるだろう。要するに、殺人を否定する明確な理由は存在しないが、実際にそれを犯したいと思う人間はそういないということだ。

つまり私は実証できたのか?道徳的理由はそもそもすべての人間に適応されなかったので論外であり、他はすべて法(文律、聖書)である。ただ、結論としては人倫が無力であることに帰着した。つまり、人倫に道徳はほとんど場所を取らず、法は確実に存在するものの、その人倫には客観的拘束力はなかったということである。