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(考察)児童虐待からみる日本の未来

本稿では社会の闇に触れてみる。これに限っては、明るい結論は打ち出せないだろう。

児童虐待に関してよく言われていることがある。まず労働先で父親がストレスをもらう。家庭で父親は母親にストレスをぶつける。母親は子供にストレスをぶつける。そうして児童虐待が生まれるのだと。もちろん現実はもっと複雑な要素が絡んでいるはずだが、基本的に肉体的に強い人間から弱い人間にストレスが渡っていく、かなり順当な考え方だろう。今回の考察はこれを正しいと仮定して進める。またこの考えが正しいならば、父親は部下にストレスをぶつけることも、子供はより弱い子供にストレスをぶつけることも、明らかだろう。これも自明として考えを進める。

そうして弱い子供に行きついたそのストレスは、ちょうど生物濃縮の逆ように、器に対して濃度が濃いために、余計重い事態になる。ただこれを良い方面から無理やり見ようとすれば、彼らが壊れる事態だけで抑えられ、間接的に社会のストレスのはけ口ができているとも言える。正確には、そう言えた。

児童虐待が法的に裁かれるようになれば、今度は母にストレスがたまる。その結果母の活動や摘発が増え、父→母のストレスの移動(DV)が問題視されるようになる。そうやって社会のはけ口はずれていった。

以下の年表を見てほしい。

2000年「児童虐待防止法」制定
2001年「DV防止法」制定
2013年「いじめ防止対策推進法」制定
2020年「パワハラ防止法」制定

近年上記の法律に関する問題が特に重要視されているために、それぞれの問題の相談件数自体は増加傾向にあるが、実際のところは注目されたことでこれまでの行為が顕在化してきただけだろう。そのため、おそらく今後は減っていくだろうと考えられる。つまりなにが言いたいのか。先述した構造にはけ口がなくなったということである。

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では、社会のストレスはどこにいくのか。ストレスは誰にもなんの影響も与えず勝手に消えるものでは決してない。構造からするに、父に溜まるというよりか、勤務先がストレスを受け付けられなくなる。おそらく社会のストレスはどこにも吸収されず、飽和する。そして今度は父だけでなく、誰もがその社会のストレスを肌で感じることになる。社会全体でストレスを共有しているような状態になるだろう。

しかしまだ、はけ口が残されていないというわけではない。ここからは先述の構造を逸脱した私の想像である。今度は直接関係のない人間にぶつけられるのではないか。というか実際に既に盛んであるのだが、つまりSNSでの著名人への誹謗中傷などである。ネット掲示板の匿名制を廃止するべきとかなんとか議論が行われており、社会は明確な法の成立を待ち望んでいることだろう。

皮肉なことに、社会を悪化させる主体は社会なのである。おそらくこれに関する法が制定されることは、日本の転換点ではないだろうかと私はふんでいる。不特定の人物に対する攻撃の他に、この現状ではけ口がどのような場所に見出されるのか私には見当がつかないからだ。

もしはけ口が完全になくなり、ストレスが社会全体に漫然とのしかかってきたのき、社会はどうなるのだろうか。杞憂ではなく間違いなく個人は壊れる。集団としては、暴動やテロでも起きるのだろうか。見当もつかない。

では今まで、どうしてここまでこの社会は成り立っていたのか。それはおそらくある程度の許容や見ぬふりがあったからではないかと思う。誤解しないで欲しいのだが、良い意味でも悪い意味でも、現代は潔癖症なのではないだろうか。光が強いほど影を強くなるとはよく言ったもので、光と影は共存しているものである。社会はオブジェクトではない。デッサンみたいに光を当て尽くすことなどできない。そんな傲慢な考えは現実的でないことを、我々早々に理解しなければならなかったのではないか。

我々は励ましや喜びといった光の部分を持ち得ている一方で、攻撃性や悲しみといった影の部分も持ち得ている。であれば、その集合体である社会に対しても、その両義性を当然と捉えてうまく共存する方法を考えていくべきなのではないだろうか。各々の問題を対策しようが、それは一つずつ逃げ道を絶っているだけで、なにも根本的な解決にはなっていない。

現代は科学に関する成功体験に味を占め人工物に対する誇りが過剰なものになっているように思う。社会を完全にコントロールすることはできない。我々は我々のために、手遅れになる前に、人工の限界を認めるべきなのであろう。