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(考察)芸術ってなあに

芸術とは堅苦しくかつ自由な印象を受ける不思議な概念であるが、実像を探ると中々グロテスクなものである。芸術と単なるアウトプットが同値かと言われればもちろん違うが、ではそれより上位のアウトプットを芸術と呼ぶとするとおそらく誤解を招く。単なるアウトプットとは声を出したり体を動かしたりすることであるが、また一方でまさに芸術と言えそうな、物を作ったり絵を描いたり文章を書いたり踊ったり、こういったより上位のアウトプットに思えるものも、私は場合によって芸術とは言えないだろうと思うのだ。

気楽な気分によって為された我々のアウトプットは、そこにいくら技量や感情を含んでいたとしても、それは芸術ではない。芸術は決して自由自在に取り出されるものではない。芸術性とは必要に迫られるということであり、そうしなければならなかったということでもある。押し込まれて絞り出される作り手の流血が芸術である。芸術は楽しんで作られるものではない。談笑のうちに作られるものに、見る人を圧倒する芸術性は存在しない。作り手のただならぬ禍々しさと執念が芸術を芸術たらしめることほかない。であるから、目の前になにかがあって、それが芸術か否かを判断したければ、そこから負のエネルギーを感じるかどうかを確かめればよい。

私には芸術は過剰に神格化されているようにも思えてならない。負の遺産がなぜ賞賛に値するのだろうか。本質的に人間の捉える世界がまさに芸術的であったとしても、賞賛されるべきは生きている人間であるだろう。もちろん死に際の極めて生命的な作品を評価するべきではないとは言えない。人間の最高の芸術はまさにこの一点にあるのだから。しかし評価されることと賞賛されることは別物である。評価されたものを見て追従するように賞賛したり、そうされるべきだと考えることは全く筋違いである。

賞賛されないのならば芸術は廃れていくのか、いや全くそんなはずなどない。我々が人間である限り、退廃性と背を合わせ続けなければならない。賞賛は集団に依存するが、評価は我々の認識に依存するからである。芸術とともに歩いていくことの可能性もまた人類は示し続けてきた。個人の血は流れてきたが、それでも人類としては躍進し続けてきた。今日までに我々は退廃性の輪郭を赤く印付けてきたのだ。残さなければならない芸術は多く存在する。そしてまた我々も、後世に残さなければならない。

他の生物と人間の違いを聞かれたとき、芸術性があるかどうかだと答えるのは一つの正解だろう。芸術は人間の唯一の特技である。それも自虐の特技である。我々は自らを殺して見して、ほうら芸術性であると人間を自覚するのである。

完全なものに惹かれる不完全な我々のやさぐれと劣等感の末は至極の芸術性ないし退廃性を光らせている。つまるところ、最高の芸術とはまさに流血の主人である。