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(考察)アイデンティティとはなにか

そんなものは存在しない。
正確には、通念にあるようなアイデンティティは存在しない。

原因は、アニメや漫画の見過ぎである。これら作品の中では、それぞれが能力を持っていて、役割が与えられている。作品の性質上、能力もなく役割もない人間を描くことは難しい。それゆえに、読者自らも何かしらの絶対的な能力があり、与えられた役割があると思い込んでしまう。実際はどんな能力にも上には上がいてきりがないし、我々に役割なんて与えられていない。そして、この誤解はもうアニメや漫画を見ている人だけにとどまらず、社会全体に広がっており、無意識のうちに我々全員の視界を妨げている。

少し別の角度からこの問題を考えてみる。先述の「作品の性質上」という表現をもう少し深く述べると、つまりこれはデフォルメに起因している事態なのである。一人一人の人間の骨格や体の歪み、あるいは顔の細かい部分は到底描き切れるものではない。だからある程度抽象化されて作品に用いられる。例えば、最も単純な人の顔のデフォルメは、「へのへのもへじ」だろう。このように、作品あるところに必ずデフォルメが存在するのだが、重要なのはこういった作品でデフォルメされるのは見た目だけではなく、思考もその対象であるということだ。

人の思考がより画一的に、分かりやすく、キャッチーに表現される。つまり人間は本来もっと残酷なことを考えるし、もっと複雑だということだ。例えば、秀才キャラであれば、まず見た目は七三分けで、黒縁メガネ、思考は冷静に誤謬を見つけて、言うべきか言わないべきかいつも迷う。こんなところがキャラ設定として考えられるが、三七分けでもいいし、ピンクネガネでも、あるいは角の立つことを平気で言う秀才だっている。これがデフォルメの罪である。

この明らかに分かりやすい型が、その人物の能力と役割を明確にする。そして我々は、その用意された能力と役割がワンセットになった洞窟のようなものに、私はこの洞窟が似合っているとかどうとか言いながら、いろんな洞窟を出入りしている。

これまでのことをまとめると、アイデンティティが存在するという誤解は、大きく2つのことから来ている。1つ目に漫画やアニメは絵になる人物しか描かれないということ。2つ目にそれらはデフォルメされており、それによって登場人物は明確に分類されているということ。である。

これによって、アイデンティティは存在しているとか、ひいては自分の本当のキャラが分からないとか、そういった事態に陥ってしまう。繰り返すが、アイデンティティなど存在しないし、本当のキャラなんてものも存在しない。

ここまでが通念としてのアイデンティティの存在否定であった。ここからは真のアイデンティティの話をしようと思う。実は、アイデンティティは存在するのではなく、発生する。つまり、アイデンティティは静的なものではなく、動的なものである。漫画やアニメは絵になる人物しか描かないのは事実であり、そんな人間は現実には存在しない。しかし、一時的に絵になる人物は存在する。というか、誰しもはそうである。相対的な優位性(能力を包含する概念)を発揮し、役割を自分で見つける。そうすると、そこにアイデンティティが発生する。つまり、アイデンティティは洞窟のように冷えて固まったものでは決してない。マグマそのものである。時と場合でなんとでも変化する。それぞれの場面で、それぞれのアイデンティティが発生するのだ。

だから、例えば勉強ができるとか、運動ができるとか、お金があるとか、諸々のアイデンティティは全て存在しない。自らより下の人がいればアイデンティティは発生するが、上の人がいればアイデンティティは発生しない。そして、我々はアイデンティティが発生したことが存在することと取り違え、発生しない場面に遭遇した時、「私のアイデンティティはどこへ行った」などと感じてしまうのである。

では我々は、一切のアイデンティティを拠り所にすることはできないのだろうか。そうとも言えるが、それだとあまりにも我々が惨めなので、どの場面においても常に発生する絶対的優位性をここで提示したいと思う。アイデンティティは優位性と役割によって構成されているために、つまり絶対的優位性が常に発生するのであれば、我々はその絶対的優位性を行使する役割を見つけた瞬間、いつでもアイデンティティが発生する。我々の揺るぎない唯一の優位性というのは、「いまこの瞬間にそこにいる」ということである。これは誰にも取って変わることはできない。その場所を移動して誰かがそこに位置しても、我々には別の場所で絶対的優位性が発生するだけである。

ただし、逆にいえば、この優位性というのはどこに行ってもついてくるのであり、恐ろしいことにその優位性を行使しないならば、我々はその優位性に喰われるのである。つまり、例えば街中で人が倒れていて、しかし声をかけず素通りする判断をするのなら、我々は後ろめたい気持ちや後悔に襲われるだろう、ということである。

ゆえに、真のアイデンティティの崩壊といったものは、自らの能力の欠如と役割が与えられないことに生まれるのではない。「いまこの瞬間にそこにいるからこそできること」をしなくなったとき、その累積によって、人間は徐々にアイデンティティを崩壊させていくのである。

(今週の癒し)
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