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(考察)エロとはなにか

今週のお題「冷やし◯◯」

今回の話題は全くお題に関連性がない。あえて言うならば冷やかしの記事というわけである。

 

エロとはなにか。人間のあらゆる文化的側面にはエロがあった。とりわけ日本人のエロとは、他国の追随を許さない豊かさがある。定期的に私がこの考察をしたくなってしまうのは、やはり私が日本人だからなのだろう。グローバル化に憂き目ばかりの昨今、あえてこの大和の血に脈々と流れる「Japanese Erotic」を解剖していこうではないか。

 

まずはJapanese Erotic(以降JEとする)の輪郭をなぞっていくために、いくつか例を出そう。JEを語るにあたって、官能小説や春画の存在は無視できない。まず、官能小説は直接的な表現を伴わない。これは戦後の検閲に過激な性描写が校正されないための対策であった。これが我々日本人の豊かな情緒、悪く言えば鼻の下を伸ばした小僧の魂、と見事な調和を果たしたのである。官能小説とはより間接的な、より含蓄を富む表現の模索であり、JEの本質を垣間見せてくれる。また春画に関しても見え隠れするJEが読み取れる。ゴッホが愛した日本画は、紛れもなく春画をルーツにしていた。そして、これらすべては普通、想像しがたいシチュエーションである場合が多い。ここでは伏せるが、なるほど確かに日本人の創造性は如何と思わせられるものばかりである。ところが想像しがたいその発想に我々が直感するのは、不思議と嫌悪ではなく、驚嘆とため息なのだ。

 

これらから、JEをどうとらえるか。簡潔に述べれば、JEとは崖の上の恋である。ユートピア的エロを提供する一方で、過ぎたるものは及ばざるが如く陳腐なものとなってしまう。崖の上だからこそ、恋は燃え上がるのである。つまりJEは十分に文化的かつ理知的でなければならないが、行き過ぎればOver Erotic(OE)となってしまうということだ。この崖、つまり臨界点に存在するものが、JEなのである。

 

今回はこれらを踏まえて、服装について考えてみよう。露出度をx軸、JE indexをy軸にとるとこの関係性はy=sinx(0≦x≦π)と考えられる。(ところが後述するようにこの認識は実は厳密には相応しくない)f:id:sio303:20220821201630j:imagex=0は着こんでいる状態、x=πは一糸まとわぬ状態である。グラフのとおり、x=π/2以上ではOEの影響力がJE indexの増加係数に大きく及んでいることが如実にわかる。最も疑問なのはこのスケール感である。15年ほど前に東大入試でπ/2に該当する服装を答えよという問題が出たことがある。その際に胸部を1/4晒した状態であるという解答があまりに多すぎたために、試験監督をしていた教授が、試験中にふざけているのかと激怒した話がある。これは全くもってその通りである。この問題はゆとり教育の最骨頂を露わにし、またそれは最高学府によるものであったという強烈なアンチテーゼとして今も語られている。では答えはなにか。それはミニスカートである。x=π/4はうなじ見せ、x=3π/4は水着である。つまりうなじを見せる身なりと水着を着ているときは同じJE indexを示すことになる。これらは直感に反するだろうが、それが理学なのだ。

 

ところが、世には露出度が高いほどエロさ(広義JE)も上昇するという俗説が蔓延しているのはなぜだろうか。これはマクローリン展開によって理解される。

f:id:sio303:20220821200750j:image

y=sinx=x-x^3/3!+x^5/5!.........

ランダウ記号oを用いて

y=sinx=x+o(x^2)

つまり非常に解像度の低い近似かつx→0においてy=xとなってしまう。これが原因である。確かに初めは露出度の増加とともにJE indexは上昇する。そのため我々の経験的な無意識のプロットは仕事をやめ、以降も同じ関係性が続くと誤った推測をするというのが真実である。我々の業界ではこの民俗的錯覚を(特に露出度とJE indexの関係において)OE欠損と呼ぶ。

 

確かに、∞次の解像度は人の範疇ではない。ところがGHQ以降の日本人の愚民具合を考慮したとしても、一次関数の近似はあまりに憂慮するべき事態である。なぜならば言うまでもなく、我々は日本人だからに他ないだろう。我々の偉大なる先祖のために、できる限りマクローリン展開をして近似次数を増加させなくてはならない。より高い解像度を持ってして、世の複雑性を理解しなくてはならない。y=sinxという認識は厳密には相応しくないと前述した。正しくは、∞回展開したもので捉えなければならない。一次関数的理解は浅はかではあるとしても、展開せずに最初からy=sinxと認識することは一見正しいように思える。ところがこれは我々の思考パラダイムの欠陥を自覚していないと言わざるを得ない。例えば円というものを想像する。しかしそれほどの円は現実に存在しない。円形の紙切れも硬貨もボールの断面も、すべて円もどきであり、xyzどの軸を取って吟味しても加工や汚れによるゆがみが存在している。極限まで近づけたとしても、やはり空想には到達しないのだ。私は残された時間のなかで、できる限りy=sinxをマクローリン展開しなければならない。神への階段を上り、空想世界の頂きへ到達せねばならない。エロとはなにかを真に理解するために。あなたもまた、かつてのアインシュタインのようにデカルトの神を信仰するのなら、自然界に記述された関係性を見逃してはならない。JEは、森羅万象なのだ。