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(考察)確率からみる数学の限界

私の新しい理論をここで提唱しよう。

あらゆる確率は0である。という理論である。

 

とある機械がある。1つのボタンがついていて、そのボタンを押すと、赤、青、黄のいずれかの色のボールが1つでてくる。

赤のボールが出てくる確率はなにか?

1/3

本当に?もっと現実的に考えてみよう。

ボタンが接触不良を起こす可能性があるのではないか?つまり接触不良を起こさないようにするわけだから、単純化して1/2とすると、

赤ボールの出る確率は1/3×1/2=1/6となる。

あるいは、あなたがこのよくわからない機械を教室でいじっていたとしたら、そんな陰キャラみたいなやつをいじめたがるヤンキーが来るかもしれない。彼らに機械を壊されてしまう可能性を避けなければならない。1/2の確率だ。もっと言えば、ヤンキーが来る、来ないは彼らの視線に入るかどうかの1/2の確率である。視線に入るかどうかは彼らが昼休みの校舎裏のだべりから帰ってきて教室に入るかどうかの1/2の確率が存在する。とすれば、

赤ボールが出る確率は1/3×1/2×1/2×1/2=1/24となる。

このように、いくらでもそこに現実性を帯びさせることができる。そして、このことを一般化すると確率は、現実性を高めた先に、1/∞(無限分の1)となる。数三を勉強している人ならば、これがなにを意味しているかは分かるだろう。つまり、

数学の世界において、1/∞=0なのだ。

 

あなたはこれをどう思うだろうか?反論ができるだろうか?実はこれは命題に関する誤りがあるのだが、ひとつ言えば、本質的に、確率とは定義が全てなのである。現実からどこまでを切り取るか、これを定義しなければ解くことはできない。確率の本当の難問とは、現実のどこを抽出するか、ここから問われていることがある。これが確率の本質なのだ。

 

要するに先ほどの私の理論は定義が曖昧だったということになる。

実は、そうではない。

曖昧なのは我々の認識である。

命題には、総合的命題と分析的命題がある。総合的命題とは、現実そのものに関わることであり、自然科学の領域である。仮説を立て、実験をし、初めて確からしい結果が分かる学問である。対して、分析的命題とはまさに数学である。答えは1つであり、2次元の世界(つまり紙の上)であらゆることが完了する。

確率とは、分析的命題である。ゆえに、文言以上の解釈をしてはいけなかったということだ。

当然だと思うだろうか。あなたは本当に自覚しているだろうか。つまり

あらゆる現実は文言にした時点で分析的命題となってしまうことに。

眼前の全てを我々は認識することはできない。ましてや描写することなど不可能だ。であれば、排除された現実がある。冒頭の理論のように、接触不良を起こさない機械など存在するだろうか。しかし確率の答えが1/3だとすれば、その現実は排除されている。

数学とは、現実を人間の理解の範疇に落とし込んだものである。1/3に何かしらの確率を何度も掛けていける、という話をしたが、その結果が∞というのはあまりに大雑把ではないだろうか?もちろん数学的には正しい。しかし、その無限とは1/12445×10^6かもしれないし、1/1111111×10^7かもしれない。分かっていただけただろうか。∞とは、あからさまに人間の理解の範疇に落とし込めているのである。

では、数学は無意味なのか?そうではない。我々にとっては意味がある。現実にとっては無意味なだけである。数学なくして人類はここまで発展しなかった。しかしそれは、我々が人類だからである。ただそれだけのことだ。

物事を反駁する際、それが総合的命題なのか分析的命題なのかを分類することは有効である。つまり、総合的命題なのであれば、それは文言によって完全に言い表せるものではない、と言えばいいし、分析的命題なのであれば、現実はそんな単純ではない、と言えばいい。こうして、あらゆる議論が無意味になる。

 

次回

(物語)光源氏、デートをする。