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(考察)平和のためになにができるか

今週のお題「本棚の中身」

ちょうど本棚を整理していると、いつくかの積読の社会派本たちが見つかるわけだが、どうやらこれらを眺めていると、現代の問題がどうも平和への道すじを探し求めていることに帰結するように思える。私自身平和、平和と叫ばれてもなんともすんとも言えず悶々として過ごしてきた。平和のためになにができるのか、これはいま読んでくださっているなかにも、明確に答えられる方は少ないのではないだろうか。そこで、今回は平和のために我々はなにができるのか、これをテーマに書いていこうと思う。

 

 

結論から言えば、分からない。

ところが全く浅はかに分からないと結論づけるよりかは、論理的な議論の上で分からないと結論づける方がまだいくらかはましであろう。この記事ではいくつかの議論を交えて、分からないという結論を導こうと思う。

 

 

世界平和の達成とは、津々浦々全ての人間に自由と平等が与えられるということになるのだろう。なぜならもっぱら争い事はここから生まれるからである。ところで、私たちは自身の人間という種族の性質も考えなければならない。我々のコミュニティへ帰属する倫理観は、多くて数百人規模に対して発達してきた。人類史の最も長い期間においてこのような生活体系が続けられていたことから、現在の人類もその性質が根強く残っていることは疑いようがない。これは過去に性差についての考察で述べた通りである。つまり、現代の70億というコミュニティに対しては、我々の倫理観というものは全く圧倒されるのみなのだ。もとより人間の倫理観というものはこのような膨大な人数によって生み出される慣習、宗教、政治体系それら全てを考慮するように設計はされていないということだ。そして結局人々は、身の回りの人間が幸せなら良い、と思い至る。

 

 

加えて、世界には不幸な絶対量という概念があることを説明したい。極端な例だが、人を殺害する際、その人間は怒りで自らの心の平穏を崩壊させている。あるいは憎しみを抑え込んで、殺害しない場合もある。ところがこの場合の多くは、抑制の挙句自らの心を崩すどころか殺害する。どこかに放出されない鬱憤は溜まっていくものだ。この例から直感的に、世界にはちょうど水のように量を一定として川、海、雲、雨と循環していることが分かる。不幸は分配されているのだ。そしてそれは均等ではない。これもまた平和を乱す要因である。

 

 

私たちにできることとして、例えば募金やボランティアがあるじゃないかと問う人がいる。ところがあなたがアフリカに寄付をしたとして、ではモノカルチャーに苦しむ国々の食品を今日も食べている食生活はどう見直すのだろう。EUに移民が逼迫しているなか、あなたは日本の政治に意見を言えるだろうか。もちろん現代は複雑過ぎるゆえに、誰も全てを把握してなどいないし、どの機関においても完全なる論理性で政策を打ち出すことはできない。現代で決定打となるのは論理性よりも妥当性である。すると今度は、自分の周りから、少しずつ、たとえそれがいくつかのグローバルな問題を無視するとしても、小さなことに尽くすことは意味があると述べる。当然意味はある。他人の幸せに注力することはまったく有意義なことであるが、平和への最も大きなハードルは、図らずとも他人の幸せを自分の幸せにする資本家の存在である。資本は差によって作られる。そしてその差こそが平和を阻止する。ところが資本主義の社会において彼らは絶対的に必要な存在である。そうでなければ資本主義ではない。それでも資本主義に人類がすがりつくのは、人類史の中で最も成功した政治体系だからである。彼らから金を一切巻き上げるのなら、そして再び分配しようとでもするなら、それは社会主義だろう。社会主義が平和を産まなかったことは歴史から明確である。また成立したとしても、ロシアや北朝鮮のように富の集中が結局発生する。

 

 

一種の宗教を作れば問題は解決するようにみえる。例えばキリスト教は愛を持ってして信者の行動を規律させた。現代の問題はこの宗教がごった返しで存在していることである。いろんな平和へのアプローチの仕方が混在しているのだから、誰も足並みを揃えることはできない。であれば、地球全体で一つの宗教を埋め尽くせば良いのではないか。これも大きな勘違いを含んでいる。自由主義が台頭する現代で、いまさら宗教を信じる人々が現れるだろうか。もちろん科学もある種の宗教と言える。もっとも地球で繁栄している普遍的なパラダイムである。ところが、科学は平和への解決策を提示しない。むしろ破壊することに利用される。最も現在盛んで、現実的な平和へのアプローチを見つけ出す可能性があるのは、この科学に他ならないことは悩ましい現状であろう。

 

 

なにもこの記事は物事を悲観して嘆くものではない。我々人間の性と現代への適応性を考えただけである。人間は身の回りが幸せであることなら願えるなかで、自分に分配された不幸を背負って生きていくことに必死だ。まったくの他人に分配された不幸など、我々は一緒に背負ってあげようとは思えない。私たちは認めざるを得ない。先進国は人の不幸の上に成り立っている。富裕層は貧困層の上に成り立っている。私たちにできることはないとは言わない。ただ、分からない。科学の平和アプローチもこの複雑な現代のシステムを定量化することの困難は誰にでも分かる。もしかしたら別の方法で上手くいくかもしれないし、まったく画期的なことが起こるのかもしれない。いずれにせよ、我々はいま分からなさのなかにいる。これは揺るぎない現実である。