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(玄人向け考察)論理性という罠について

今週のお題「やり込んだゲーム」
論理というある意味のゲームをやり込んできた挙句のアイデアを共有する。


我々は解があるところには論理は確かに存在するが、論理あるところに解があるかは怪しいこと、そして同時に2つ以上の解を認識することは不可能であるということを自覚するべきである。つまり、我々はよく注意しなければ、論理が解を意味するものであり、また解が1つでないときも、1つであると勘違いするということだ。

自らの論理性に捕まることはよくあることだろう。意思を持って判断している場合と、自己を正当化している場合とを自覚しなければならない。我々は言い訳を言い訳だと自覚せずに自らを誤魔化すことが往々にあるのだ。厄介なのは、言い訳も論理性を持つと言うことである。加えて正直な話、論理はかなり万能である。その一例を見せよう。今ホットな議題「コロナワクチンを打つべきか」試しにここで打たないと選択したと仮定して、もっともらしく高尚な理由を既存のもの以外の論理で主張してみよう。

「確かにワクチンを打つことは周囲や国への貢献となる。だが、私がワクチンを打たない理由もまた、人類への貢献なのである。抗体のある人間とない人間の2種類いるというのは、種という観点からすれば変化の対応力が高いと見なすことができるだろう。対抗あるゆえの伝染病が出現した場合、人類全てが抗体を持っていれば我々は絶滅する。」

上記の主張はかなり突飛だが、論理性はあるかもしれない。要するに、私が言いたいのはどんなものにもあの手この手で筋を通すことは可能である、ということだ。今までの私の考察シリーズからしても、それはよく分かることだと思う。論理はいくらでも用意できるにもかかわらず、我々はどれか1つが優れているとみなしがちだ。冒頭にも述べたが、我々は物事を同時に認識できない。例えば走る電車を見ているとき、どこか1つのドアに注目するとはっきりそのドアが通り過ぎていることが見えるが、呆然と見ていれば何が何だかわからない横縞の景色が見えるだろう。同じように、我々は1つの論理で1つの頭を使うのである。

時には論理性を捨ててみることも重要だろう。とっかかりとしては、「自分はどうしたいか。」と問うてみることだ。論理ではなく意思を確認するのだ。自らが論理の家に立てこもっていることに気づくはずだ。わらも木もレンガも壊そうと思えば全て壊せる家であるが、論理の家は内側からしか壊せない。そして、入れないというより出れない。入っていることを自覚していないのだから。論理性を持つ人間が本当に恐るべきことは狼に呑まれることではなく、論理に呑まれることである。

ただ、これにも問題はある。例えば邪悪な感情、あるいは希死念慮などがあったらば、それに正直になることは、一旦はそうするべきだが、それに向き合い続け、行動に移すべきだとは声高に言えることではない。まれに、自分を誤魔化して論理の家に立て篭もることも、また必要である。論理は一貫するが、意思は変容し不明瞭である。これに不安に思うこともあるだろうが、逆に言えば全く反対方向の意思になる可能性があることも意味している。

抽象的な意味合いでの「なぜそれをしているのか。」という問いに対して論理的に説明しようとするのは、自らを騙している証拠である。決してやりたいからやっている、と答える人間には歯が立つものではない。また、論理とは観念の遊戯である。所詮言葉遊びに過ぎない。おもちゃに囚われ、論理性しか見えなくなった先に、効率、整合に基づく人の過激な考えが生まれる。再三言うべきだろう。論理はおもちゃにすぎない。分別のつかない幼児のようにならないように、終えたら片付ける。大人しくそうしてやっていく分には、ちょうどいいゲームなのだ。