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(考察)生きる意味とはなにか

昔書いた記事です。脈絡がたまにブレている文章ですが投稿してみます。
(新しく記事を書く時間がなかっただけ)



思春期の峠を乗り越える時がついに来たのである。わが哲学がこれに対応できるレベルに達したのか否かは不明だが、やってみないことには分からない。

正直、何歳になってもふと暇になると、これに悩むのが先進国に生まれた人間の天性なのだろうと思う。我々は裕福な国に生まれた。しかしだからと言って、反対側の国の事情(飢餓や紛争)を持ち出して、そんな暇な悩みを持ちやがってと非難するのは間違いだろう。どんな環境だろうが形を変えて苦痛は存在する。

大体はこの悩みが中心に据えられるのは長くて20代までくらいだと思われ、それ以上の人間がこの悩みに頭を抱えているかどうかは分からないが、少なくともこの悩みを言葉として吐いているのは見たことがない。

では彼らはこの問いに対して答えを見つけたのか。それは確認しがたい。なぜならおそらくその答えというのは、言葉にできるものではないからである。それゆえ、答えを知っているのかただ目を背けているのかの区別がつかない。

すぐさま生死に関わるような悩みが少ない国、時代であるほど、人間は早い時期に好奇心でこの答えの言語化を試みる。しかしできない。そうして我々はまだ経験も視野も未熟な頃から、まだ耐えがたい無意味さに襲われるのだ。

あるいは、過去の「(考察)恋愛をするべき論理的な理由」「(考察)恋愛をするべきでない論理的な理由」のシリーズや「(考察)なぜ人を殺してはいけないのか」からもわかる通り、突き詰めるとものを考えるというのは、最終的には論理とか意味とかは全く力を持たない結論に達する。

また、「(玄人向け考察)死とはなにか」でも少し触れたが、おそらく、生きる意味などない。好きに生きればいい。ただそれのみである。

年収がこのくらい欲しいとか、結婚したいとか、子供が欲しいとか、いかなる強迫観念から解放されれば、それはあなたや私の人生は誰かの人生の類型ではなくなるという事実がある。内面化された数多の常識が我々を型取り、それならば、我々は何者だろうかと、代わりはいくらでもいるじゃないかと、存在に意味がないのではないかと、そうして意味をみつけようとし始めるのだ。意味もなく存在するということに、強烈な心もとなさや不安を感じる。それでは、一生この問いが頭をもたげることになるだろう。

我々は、自らを型取る世俗的意見に、常に疑いの目を向けなければならない。そして疑うべきはその真偽ではなく、自分が本心からやりたいと思えることと合致しているかどうか、である。我々は周囲に従ってはいけない。自らに従うべきなのだ。内発する倫理観に基づいて、したいようなことをすればいいし、したくないことはしなければいい。毎日を楽しく生きれればいい。いくつか例を出そう。これらは決して極端な例ではない。受験に押しつぶされそうになろうが、勉強を楽しんでいるのなら、それだけで人生は万々歳である。一流企業に入れなかろうが、結婚できなかろうが、ホームレスになろうが、毎日のルーティンを噛み締め、そこに喜びがあるのなら、それも万々歳である。

我々は未来を見ることはできない。船を漕ぐと、進行方向とは逆の方向を見ることになるだろう。人生もこのようであり、未来は見えることではない。厳密に言えば、その一瞬一瞬に現在が過去になっていくだけで、我々はその現在から過去の流れの源流があるだろうと未来を想像するのだが、そんなものは存在しない。我々の後ろ側には何もないのだ。そこに喜びを望むのは合理的ではない。ただ我々は、船を漕ぐことを楽しめばいいのである。

またはこういうアプローチもある。色んな人が喋ったり書いたりしていることを観察している限り、私の感覚的にはこの答えを持つ社会人はかなり割合として多いように思う。それは、誰かを守るために生きる、というものである。好きな人とか子供とか、いるのならばその人たちに時間と労力捧げる。彼らの幸せを願って、多少の労働に耐え、今日も生きる。

私はこれら答えを完全に言語化することは全くできていないと自覚している。決して言葉を通じて論理的に理解するものではないからだ。

客観的には、生きる意味など存在しない。しかし、そもそもの立ち位置がまず誤っていることに気づかなければならない。我々は客体ではない。我々はほかでもなく、自らの人生を生きる主体なのである。であるならば、主観的に捉えれればよい。常識もまた一種の客観的見解なのだから、よく注意しなければならない。そして生きる意味とは頭で情報を組み立てて考えることではない。もっと瞬間的かつ本能的に、捉えるべきなのである。

あなたの生きる意味はなんだろうか。






次回「(物語)トンデモ科学部の先輩 9」