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(考察)恋愛をするべき論理的な理由

恋愛はするものなのか、起きるものなのか、定かではない。しかしいずれにせよ、恋愛をするべき論理的な理由は存在し、恋愛をするべきでない論理的な理由は存在しないのである。

恋愛をするべきでない論理的な理由として挙げられそうなものを提示する。
・悲劇①
・そもそも男女は分かり合えない②

まず①に関して、結果論を好む人がいる。つまり、「好きになっても拒絶されれば絶望し、付き合ってもいつかは別れ、結婚すればいずれ死別する。だから、恋愛とは負のものである。」というような考えを持つ人がいる。これはある意味事実とも言えるが、やはり我々には心のどこかで引っかかるものがある。その原因はおそらく、「結果より過程が大事である」という物心ついた時から我々に自然と内面化されていた格言であろう。結果と過程はどちらが大事なのか。例えば、受験で考えてみる。一般的に、我々は東大に入ればとても嬉しいと思う。では東大に落ちたら悲しいのだろうか。もちろん直後は悲しみに暮れるだろう。本気であればあったほど、ひどく落ち込む。しかし、挫折し絶望し、それでも努力し続けた日々は、確実にその人には存在し、東大に落ちたその時であっても、あるいは死ぬまで、その人を支えてくれるはずだ。思うに輝かしい結果とは、氷山の一角のようなものである。海の上からは彼らの氷山は見えなくとも、海の中には立派な氷山をなしている。また、過程に対する喜びは永遠に存在し、結果に対する喜びは刹那的であるという事実がある。東大に入ることが喜びなのであれば東大に入ってしまえばおしまいで、努力することが喜びなのであれば、死ぬまで喜びを享受できる。たとえそれによっていい大学に入れなくとも、輝かしい結果を残せなくとも、である。もう自明であろう。恋愛においても、結果論に左右されることほど、理にかなわない行動はない。

次に②に関して、「男女は分かり合えない」これは確かにかなりの真実である。ただし問題なのが、これが恋愛をするべきでない理由となるかどうか、である。分かり合えないからこそ、お互いに気持ちを想像し合い、譲り合い、崇高な関係になっていくのではないだろうか。そうやって仲を深めていった男女というのは、友情よりもより深いものである。友情は確かにある程度シンパシーを感じるためになにかと想像もしやすいし行動もしやすい。だが、それ止まりである。一方男女の手練なる関係の向上は、シンパシーに依存するのではなく、むしろ元からあるシンパシーに加えて、さらにシンパシーを作り上げることにある。「男女は分かり合えない」という理由は、実は恋愛をするべき理由であったのだ。

次に、恋愛をするべき主な論理的な理由を挙げる。
・充足感を得るため①
・子孫を残すため②

まず①に関して、恋愛は俗に言う幸せホルモンを放出させる。単純にいえば、幸せホルモンが出るから充足感も出る。ここに反論の余地はない。ただ、おそらくここで問題なのは充足感の収支である。別れがきた時の喪失感は充足感を奪うはずだが、それは全体としてプラマイプラスなのか、プラマイマイナスなのか、ということだ。これは結論としては、「初めのうちはマイナスかもしれないが、恋愛をすればするほどプラスになる」である。恋愛という相手のことを深く考える行為を通じて、我々は動揺し、焦り、悲しみ、喜ぶ。そうして我々は精神世界を重厚にしていく。これは、その人がより多面的になることを意味する。恋愛をするたびに、感じる充足感の幅と深さは増していくということだ。結論の中の「恋愛をする」という表現は回数の意味も含んではいるが、深さもでもある。これは老夫婦を見れば明らかなことである。手を繋ぐことの充足感のみに囚われるとか、それはまだビギナーで、もっとハードなものを求めるのもよりビギナーである。充足感の過敏化は、ただ一緒にいるということだけにも、幸せを感じさせるものだ。

次に②に関して、人間の3大欲求には性が含まれ、人間にとって恋愛はその第一段階にある。我々が生物である以上、この欲求に従うことは自然な行為なのではないだろうか。自然な行為というのは、超論理的な行為ということである。論理は人間の範疇だが、自然であることは論理に先行して、我々の論理を拡張させてきた。つまり、自然な行為というのは超論理的な行為といっても差し支えないだろう。確かに、この未知なる超論理性を信じることは、論理的ではない。しかし、いずれ論理的とみなされるかもしれない、と時間軸を前後させて思考することを放棄することの方が、非論理的ではないだろうか。

論理性とはどのようにして保たれるのか、それは絶えず議論を行わせることによって保たれる。反論と同意によって、形を変えてその論理性は洗練されていくものだ。誰かが本稿にコメントをして反論をしなければ、本稿の論理性は失われる。しかし同時に、本稿は論理になる。つまり初めからその論理性は洗練されており、この記事に目を通してくれる人の目には、それは論理的であると映ったと、そのように解釈される。私がそう解釈するのではない。あなたがあなた自身に、そう認めるのである。

ここまでは論理的な思考によるものであった。
たまには感情的にも物事を考えてみる必要がある。というかこれも立派な意見である。しかしながら、感情的な意見は感情的な反論以外適切でないのである。つまり、「恋愛は不幸を呼ぶ!やめとけ!」と言われれば、「やだ!」と答えるべきなのである。ものの考え方の互換性がなくなってしまうからだ。そして、そうであるならば、本稿に対するいずれの感情的な意見には、全く無益な結果しか生まれないことは明白である。厳密に論理性を捨てるのであれば、因果関係を考えてはいけないのでまず結果を考慮して議論してはいけないのだが、ちょっと論理的に見れば実際にやってるまでもないことであるから、そこは人間として初めから省いてもいい過程だと見切りをつけてもいいだろう。

恋愛とは、もっぱらドミノ倒しのようなものである。何かの拍子で、完成する前にどれか1つでも倒れてしまえば、途端に全て崩れ落ちてしまう。中途半端に倒れたドミノには、後悔や悲しみが残るだろう。しかし、男女2人が協力してついに美しいドミノ配列が完成したとき、別れというもう一押しがドミノ倒しを真の完成に導くのだ。我々はそこに満ち足りた感情と、協力相手へのえも言えぬ感激を覚えるのである。



恋愛をするべきか、するべきでないのか。どちらの立場でも、それらしいことはいくらでも並べられる。この度の二編に続く考察は、まさにその証明であった。論理はほんの気休めに過ぎない。重要なのは、私たちがどうしたいのか、である。我々が最後に物事を決断するのは論理によってではない。意思によって決断するのである。あなたは、どちらを選ぶだろうか。

次回「言語をつくる その1」