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(考察)エロとはなにか

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

サイゼリアのエロスの姿に感動したあの日を、我々は忘れない。エロとはなにか、懐古の思いで探求してみようではないか。

数多の男性たちが大っぴらに渇望し、また数多の女性たちが密かに憧れる。それがエロである。 

本格的な定義をしよう。裸はエロか。否。裸はエロではない。エロは決して直接的であってはならない。エロは理性を持つ人間だけが持ち得るものであり、野生的生物と一線を画す概念である。ことに裸とか行為自体は非常に野生的で、直接的である。これは自然界にも見られることであり、我々はそこにエロは感じない。つまり、ライオンは短いスカートをはかないのである。

先述の内容に従えば、エロはチラリズムと同値のように思われる。チラリズムとはたしかに直接的でなく野生的でもない。しかし、たとえばビキニはチラリズムではない。一方でエロなのである。ゆえにエロはチラリズムを包含すると言えるだろう。

エロの定義は大方定まった。しかしこの定義であると、例えばネットで「エロ」と調べたら定義に収まらない検索結果が多く出るはずである。これはどういうことか。端的に言えば、我々はエロを忘れてしまったのである。

エロとは元来エロティシズムに従う理性の象徴であった。それがいまや、口にするのもはばかれ、こうやって記事にするだけで読者が辟易する概念になってしまったのである。

エロあるところに理性はある。つまり、現代のエロ(以降フェイクエロティシズムとする)はエロではないのだから、理性もまたない。正確には霞んでいる。検索結果にも真のエロ(以降リアルエロティシズムとする)であると認められるものも散見されるだろうが、それにしてもフェイクエロティシズムがそれを覆うのである。また、この定義はフェイクエロティシズムとリアルエロティシズムは分断されるものではなく連続的であることから、厳密に二分して定義できるものではないことを記しておく。

崇高な精神を我々は忘れたのではないか。変態紳士なんて言葉があるが、本来これはリアルエロティシズムの権化と言える存在であったはずだ。そのはずだったが、いまでは変態紳士と聞いてろくな想像ができない。フェイクエロティシズムに侵されることが悪いことであると言えるのは、我々の理性に対する意識というものが薄れてきていることを意味するために明らかなのである。

理性に対する意識の希薄化は、我々が人間であることを忘れさせる。そうして下劣な行為や下世話な思考が始まるのである。我々は文明生物であり、法に従う生き物である。また共存生物であり、助け合う生き物である。これに背き始める、それがフェイクエロティシズムの罪である。

アンチリアルエロティシストがこれを聞けば、そんなもので性的欲求を満たす程度の性的興奮は得られないと反論する人間がいるかもしれない。しかし、それは大きな間違いを含んでいる。私はエロティシズムの話をしているのであって、その他をアウトオブエロティシズムと再定義して、それで性的興奮を得れば良いではないか。これをフェイクエロティシズムと再定義するのも良いが、もっぱらアンチリアルエロティシストの性癖は往々にして歪んでおり、過激であるために、彼らの好むレベルはもはやフェイクエロティシズムの領域でさえないということから、これはもうアウトオブエロティシズムなのである。

ただ、友好的でありたい考えも私にはある。
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上の画像は「(考察)パクチーは好きか嫌いかふつうか」で述べた指標の完全連続化である。フェイクエロティシストもリアルエロティシストも、お高くとまろうが猥褻であろうが、同じ野生的行為から生まれた人間である。我々は手を取り合うことができるだろう。

ただ、私は決してアンチフェイクエロティシストではない。私は探求者であり、いうならばエロティシズムエクスプローラーなのである。私の根底にあるものは批判の精神ではない。私の知的欲求は批判することによって生まれない。理論の昇華によって満たされる。であるから、私は決して何事に対してもアンチの立場を取らないのである。

私だけでなく、我々は生まれながらにしてエロティシズムエクスプローラーである。間違った方向に進んでいくエロヒツジを啓蒙するのもまた、我々なのである。我々は人類として、この世界に降臨した。絶対的理性を元手に、現在破産している。人類は威厳を取り戻さなくてはならない。まずはエロから。エロの認識を変えるところから、始めようではないか。

「(物語)」