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(考察)恋愛をするべきでない論理的な理由

今週のお題「雨の日の過ごし方」
雨の日は黙って、悶々と概念をいじってみましょう。

恋愛はするものなのか、起きるものなのか、定かではない。しかしいずれにせよ、恋愛をするべきでない論理的な理由は存在し、恋愛をするべき論理的な理由は存在しないのである。

恋愛をするべき論理的な理由として挙げられそうなものを例示する。
・充足感を得るため①
・子孫を残すため②

まず①に関して、我々は充足感を得る一方で、逐一の行動に焦り困惑し、拒絶されれば絶望する。元来恋愛とはかならず、負に終わるのである。その気がなければフラれ、付き合ってもいつかは別れ、結婚しても最後は死別である。恋愛は喜劇だなんだと語る人々もいるが、現実はもっとやましく、どうあがいても悲劇にしかなりえないのである。

次に②に関して、これは、私は恋愛なんてしなくとも子孫は残せるだとか言うつもりはない。私が言いたいのは、統計学には例外が考慮されている、ということである。どの生物においても、なにを基準に考えても、一般的でない個体は存在する。これはなぜか、それは、我々が進化論に従って進化してきたからである。正確に言えば、そうでなければ進化論が成立しなかったからである。一応誤解が起こりやすい考え方なので説明すると、進化論というのは、例えば高い場所にある木のみを食べるためにキリンの祖先の首が長くなった、というのは誤りで、例外的に極端に首が長かったキリンの祖先たちが、ただその環境で生き残れたから、そのために現在のキリンは首が長いのである。つまるところ、個体単位において、子孫を残そうとしないものはむしろ、いなければならないのである。子孫を残そうとしない個体が生き残るというのはあまりに不自然のように見える。それは事実である。進化論は生き残った生物に着目した環境の取捨であり、真実は生き残ることは正ではなく、また負でもないということで、ただそうであるということである。恋愛は負に終わる、という先述の表現に自家撞着はしていない。我々がどう感じるかは重大な問題であり、ただそうであるから、では我々がこれを考察する意味がなくなってしまう。また、こんな反論も考えられる。それは個別での話であって、一般的でないし、つまり論理的でもないと言う人がいるかもしれない。しかし、私が言っているのは、ある生物の子孫を残したいとは思わないという主張が論理的だということではなく、彼らの存在が論理的だ、ということである。

次に、恋愛をするべきでない論理的な理由を挙げる。
・悲劇①
・そもそも男女は分かり合えない②

まず①に関して、これは先ほど言及したとおりである。例えばこんな反論が考えられる。男女関係が円満に解決したり、幸せのまま死別することだってあるはずだ、と。これは大きな間違いである。この悲劇にそんな性質はない。そうであって欲しいと思う、都合のいいように解釈したがる人間の性質は存在する。

次に②に関して、これは「(考察)邦楽からみる男女の関係」で述べたとおりで、その時はハッピーエンドで終わらせたものの、やはりそれは漠然と恋愛を肯定したい人間の性質がそうさせたのだろうと、今考えれば思う。いくら男女が違ったとしても、しかしながら恋愛は素晴らしいことだと、結論付けるのは論理的に飛躍しており、またどのアプローチであっても、全くの観念の遊戯なのである。

論理性とはどのようにして保たれるのか、それは絶えず議論を行わせることによって保たれる。反論と同意によって、形を変えてその論理性は洗練されていくものだ。誰かが本稿にコメントをして反論をしなければ、本稿の論理性は失われる。しかし同時に、本稿は論理になる。つまり初めからその論理性は洗練されており、この記事に目を通してくれる人の目には、それは論理的であると映ったと、そのように解釈される。私がそう解釈するのではない。あなたがあなた自身に、そう認めるのである。

ここまでは論理的な思考によるものであった。
たまには感情的にも物事を考えてみる必要がある。というかこれも立派な意見である。しかしながら、感情的な意見は感情的な反論以外適切でないのである。つまり、「恋愛は楽しいんだ!やってみろよ!」と言われれば、「やだ!」と答えるべきなのである。ものの考え方の互換性がなくなってしまうからだ。そして、そうであるならば、本稿に対するいずれの感情的な意見には、全く無益な結果しか生まれないことは明白である。厳密に論理性を捨てるのであれば、因果関係を考えてはいけないのでまず結果を考慮して議論してはいけないのだが、ちょっと論理的に見れば実際にやってるまでもないことであるから、そこは人間として初めから省いてもいい過程だと見切りをつけてもいいだろう。

恋愛とは、もっぱらドミノ倒しのようなものである。倒れていく瞬間は楽しいものである。しかし、いずれ終わり、ついには後片付けもなにもかも面倒なその状況だけが残る。我々はその一瞬の楽しさに活力を得ることができるのは事実だが、その後の処理には時間と、得たばかりの活力を消費するのである。

次回「言語をつくってみる その1」