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(考察)パクチーは好きか嫌いかふつうか

お題「気分転換」

気分転換で物事を考えました。

Some people like corianders others do not
パクチーが好きな人もいれば、嫌いな人もいる」
Some people like corianders the others do not
パクチーが好きな人がいて、そのほかの人は嫌いである」

どちらの英文が適切かと言われれば、パクチーに対しては我々は好きと嫌い、そしてふつうという感情があるのだから、好きと嫌いとその他の感情を示唆させる上の英文の方が適切だろう。

しかし、ふつうとはなんだろうか?

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そもそも好き嫌いというのはベクトルでありつまり連続的である。どちらの傾向にあるかは分かっても、中間にあることがふつうであることを意味しない。何も感じていないのだから。それは無関心と呼ぶべきだろう。加えて、これは中途半端に連続的である。連続的であるにもかかわらず終着点があるように思える。好きや嫌いという終点があると思えてしまう。これではきまりが悪い。以下は新しいベクトルに関する概念である。

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先ほどの画像から「ふつう」を排除し、連続的にした。「何も感じていないという感情」要するに無関心の要素を取り入れないのかと反論が来そうだが、そもそも何も感じていない感情というのは矛盾であり、土俵にまず立っていない。パクチーを食べたことがない人がパクチーが好きとか嫌いとか言うのと同じである。

好きであり嫌いであるというのは、幼馴染との恋愛のような感じで、大嫌いだけど大好き、憎らしいけど愛らしい。そういう相反する感情のことであり、今回で言えば無類のパクチラーと敬称するべきだろう。

パクチーに関する疑問からこの考察をしたが、これは実は一般的に言えることである結論を導くことができた。というのも、二つ目の画像はパクチー好き嫌いの話を前提としなくても先述の内容の通り全く合理的であるためである。そして、私はこれをヒモ理論と名付けた。

このうちどれが最も崇高な感情であるかといえば、おそらく「好きであり嫌いである」と言える。なぜならば、その人はそのものに対するよくない部分も見えているということを意味するからだ。嫌いな部分を認め、その上で好きなのである。例えば思春期の少年少女は、母に対してもどかしい感情を持つものである。嫌な部分もよく見える。だが、やはり好きである。これも好きであり嫌いである感情、と分類されるだろう。ちなみに、多くの場合父は無関心に分類される。

好き嫌い以外のベクトルで応用しようとすると、例えば背が高い低い、という評価に対して、背が高くまた低くもある、という評価はあり得ないので難しい。しかし、評価軸の連続性を完全なものにするために円形にする発想は応用が効きそうである。この垣間見える有効性はぜひ深めたいものである。







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