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(玄人向け考察)死について

一般的にあまり容易に触れるべきでない話題、という暗黙の了解があるが、しかし、死とは私にもあなたにも、すべからく、かつ必ず訪れるものである。これを考察しない訳があろうか。これほど確実に起こる未来が存在するだろうか。いや存在しない。であるならば、我々は十分に考察し、万全の準備で迎えるべきでないのか?

 

死生観という言葉があるが、これは生や死に拘泥するからこそ生まれるものである。その辺の草木が死生に悶々としていることはない。そして、生や死は一本の紐の左右の切れ端のようなものであり、根幹は我々の人生である。つまり、人生についてまず考察しなければならない。

 

いくつか、まず虚無感をあなたに与える必要がある。人生と世界について。闇雲に元気に生きるのは、まず悲観してからするべきである。

 

人生とは認知である。あの人の人生は華やかで、あの人の人生は悲惨で、しかし生きている世界は同じである。だからこそ、やはり我々の認知が人生を掌握しているのである。環境による影響も強いが、アウシュビッツ強制収容所においても、人生の希望をなくさずに誇らしく生きた人々はいた。(「夜と霧」をはじめとした生存者たちの証言より)つまり、我々次第なのである。

 

認知に関して、非常に悲しいことを告げなければならない。我々はすでにあらゆることをやり尽くしたのである。例えば驚くこと。脳が反応して交感神経を優位にさせるが、その反応には上限があるということである。回数にではなく、強さに、である。もはや私たちの年齢になってくると、人生で最も驚いた経験に反応した驚きに関するホルモンの放出量は相当なものである。この先の人生でお化け屋敷に入ろうが、サプライズを受けようが、外的世界は違えど、どれも高水準の反応を示し、そしてそれは我々の認知に還元すれば、どれも同じことになってしまう。

つまり、これからの人生の起こりうることは、たかが知れた範囲内のことである、ということだ。なにが起こるか分からないのが人生の面白いところだと言う人がいるが、本質的にはそんなことはないのである。

 

または別のアプローチ。手作業は機械が、経験は理論が取って代わる、そんな時代に我々は生きている。アナログがデジタルになる。アナログはデジタルの下位互換であろうか?ここは取り違えられることが多い。確かに人間に任せるより正確に機械がやってくれることもある。だが、プロの感覚や人間のものの捉え方を模倣することは難しい。アナログは情報量が多すぎるためだ。いくらデジタルとは言えど、人間の着眼点や思考手順、判断基準を洗い出すのはこれまた人間である。 

 

ところが、これがじわじわと侵食してきている。そういう時代なのである。では、いつかそれらすべてがデジタル化したら、つまりあらゆることの理論と原理が把握され、パソコンのなかで現実をつくれるようになったら。完全なAIの開発なども、このベクトルでの考察である。人間の脳や自然の営みまで、全てがシミュレーション可能になったら、それはつまり現実は再現可能であることを意味する。つまり、現実がつくられたバーチャルリアリティではないか、という答えに行き着くということである。ここで言うつくられた、というのは誰か他の人間がつくっている、と言うようなニュアンスではなく、我々の生きている世界のより上部構造が存在していることを示唆するまでである。それ以上はなにも分からないのである。

 

要するに、この世のあらゆることが私やあなたが生きているうちに解明されたとしても、「我々は神ではなかった」の一言で人類は知性の向けどころを完全になくしてしまうのである。

 

2つ例を挙げたが、どうであろう。構造的に非常につまらないこの世界で、それがなんであるか分からないまま、我々は朽ちるだけである。

 

そこで、「では我々は生きる意味があるのか?」という問いがでてくる。結論から言えば意味などない。人類は言語をつくったが、世界は人類がつくったものではない。人類がつくっていないものを、人類がつくったもので言い表すなど、不可能である。

 

では、死はどうか。根幹に意味がないのだから、これにもやはり意味はない。死には老死や事故死や自殺、他殺などさまざま存在する。老死をとがめるものはいないが、自殺をとがめるものはいる。これはなぜか。つまり、意味を取り違えているのである。正確に言えば意味のないところから意味を見出して空気を掴んでいるのである。いつかふっと死は訪れる。絶望し、自ら死を選ぼうとも、それがその人の人生である。我々はこれを受け止めようとする必要はない。ただそうであると知るだけでいいのだ。

 

我々は生きねばならない。なぜなら生きているからである。それ以上の説明は無用である。意図的であろうが想定外であろうが、死が訪れるまで、生きなくなるまで、生きねばならない。

 

では、どう生きるべきか。毎秒を大切に生きる他ない。10年後を見据えていま我慢する、というのも素晴らしいことだが、10年後は果たしてやってくるだろうか。毎日を懸命に生きたその結果の人生にこそ、あなたや私にとって有意義なものになるのではないだろうか。

 

世界に希望を見出す可能性も提示しておこう。世界のどこかで今も、誰かが誰かを思っている。愛かもしれないし、情かもしれないし、恩かもしれない。多くの人々がいつも誰かを思い、今日も頑張ろうと思う。そんなこの世界も、なかなか捨てたものではないだろう、と私は強く思う。

 

 

 

 

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