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(考察)教育とはなにか

昨今教育がホットな話題として取り上げられる。共通テストなり授業形態の変化なり、様々な変化が施されてきた。そんな時代だからこそ、いまここに問うべきなのである。

「教育とはなにか」

ここでの教育の定義は学校における勉強に留まらない。人道の教育や職人の見習いへの教育までもを含める。

私の思う教育とは、一言で言うならば「見せる」ことである。教育者が熟練の技をただ見せ、被教育者はただそれを見る。それを何度も何度もやっていく。後述する私の理想的な教育、がなされている業界を考えると教育の期間というのは、おそらく20年とかそこらの時間を要する。

本来の教育に言葉はいらない。なぜならば、これは教育者と被教育者の悲しい関係の性なのだが、教育者の言うことは、全くもって被教育者には伝わらないのである。教育者は経験も知識も段違いである。そんな高いところから被教育者を見て、お前の足元にミステリーサークルがあるぞと言われても、被教育者からすればただの部分的な溝とか草木の偏りしか理解できないのである。

ではなぜ教育において、例えば学校なんかでは言葉を用いて教育が行われるのか。それは時間がないからだ。小中高で12年、義務教育だけなら9年。これで多数の科目において真に本質的に理解させることは不可能である。教科書には誤魔化しが多くあることからも、教育指導の権威が不可能だと理解していることがわかる。

教員側も詰め込み教育はあまり好ましいとは思っていないだろう。どの教員も自らの専攻した科目を好きでいるはずで、もっと生徒に本質的に理解して欲しいと思うのは普通のことである。ただ、それにしては時間が短すぎる。小学校から高度なことは教えられない。脳が発達してきた高校生の頃には、すでに生徒は受験のことで頭がいっぱいになっている。つけ入る隙などどこにもない。だから、教員はなくなく言葉を使うのである。テクニックとか小手先のことを教える。生徒の足元にあるミステリーサークルを逐一言葉を用いて生徒になぞらせる。そうして生徒はミステリーサークルがそこにあることに気づく。ただ、それに必死になるあまり、隣にもうひとつミステリーサークルがあることには気づかないし、本来声を出して教育していなければ見えていたはずの周囲の美しい自然にも目を向けることはまずない。

私は学校教育を批判しているのではない。ただ被教育者には少し問題がある。上記の理由で教育者は言葉を用いで指導することは仕方のないことである。しかし、被教育者は、それがその科目の本質だとか、自分は教育者の言葉の本当の意味がわかっているとか、そんなつけあがった態度は絶対にするべきではない。
(これは過去の私の記事「(考察)確率からみる数学の限界」に対する反論である。)

正直な話、あらゆる教育は慣れに帰すると考えている。学んだ当時は物事が複雑に思えても(言葉を用いない教育は自分の言葉で理解しなければならないので、非常に複雑に思える)何度も反芻していくうちに自明とか、理にかなっているとか思うようになる。習うより慣れろというのは、本当のことである。「見せる」これによって被教育者は何か分かったような気がする。そうして自分でやってみて、しかし上手くいかない。もう一度見せてもらう。この繰り返しである。初めは、被教育者の目線はもっぱら教育者の挙動、つまり手足の動きにばかり着目する。しかし、いずれ自ら気づくようになる。熟練の技というのは、挙動よりもむしろ目線や息遣い、心の持ち方からくる。師範は精神論をよく語るイメージがあるだろう。彼らにとってすれば、挙動はおまけであり、熟練の技を繰り出すその根本は精神であることを理解しているのだ。

教育とは「見せる」ことである。余計な言葉はいらない。それは混乱を招き、被教育者を誤解させる。生物はその生態構造から、いずれ必ず教育者の立場になる。思考の末、もっぱら人間的に思えるような教育という分野にさえ、我々は自然界から学ぶべきであると暗に悟るのである。





次回「(考察)」